ゲノム編集食品に関するリスク考 (2021年6月11日)

山口治子


愛知大学
山口治子

 2019年10月ゲノム編集食品の届出制度が始まり、昨年12月、血圧上昇を抑えるGABAが含まれるトマトの販売・流通が国内で初めて受理された。ここでは、リスク研究の観点から、いくつかの研究報告をもとにゲノム編集食品のリスク管理に関する課題を考察する。

 まず、リスクとは予測できるものであり、将来の事柄を示す概念である。予測できないものは「真の不確実性」とされ、リスクとは区別される。また、真の不確実性には、科学的知見の充足度により、曖昧であるが悪影響の生起が想定できる「曖昧性」と、想定できない「無知性」に分類される(山口 2011)。
 現時点で懸念されているゲノム編集食品の潜在的リスクは、OECD会議のレポート(Friedrichs et al., 2019)によると、大きく3つ指摘されており、(1)ゲノムまたは細胞レベルでの意図しない影響(オフターゲット変異の出現やCRISPR/CAS9の持続性による影響など)、(2)植物に対する意図しない影響、そして、(3)フィールドレベルでの意図しない影響がある。このうち、農業への適用範囲において、(2)については想定されるリスクはなく、(1)については従来の伝統的な育種技術の変動の範囲内であることが報告されている(Friedrichs et al., 2019)。また、(3)については、(3-1)新しい特性を導き出すための多重ゲノム編集に関連する意図しない影響と、(3-2)ゲノム編集の効率と技術的な使い易さによる育種の潜在的な加速化に伴う意図しない影響が懸念されているが、(3-1)については従来法よりリスクは小さいという知見が多い。要するに、(3-2)のみ、農業分野におけるゲノム編集技術における無知性に近い曖昧性の新しい課題が残っていると考えられる。当然のことながら、現時点でゲノム編集食品に対する適切なリスクアセスメントの実施は不可能であるというのが共通の見解のようである(Agapito-Tenfen et al., 2018, Friedrichs et al., 2019など)。対応の一例として、現在、仏バイオテクノロジー高等評議会は、必要に応じて生態学的、農業生態学的、経済的および社会的影響に関して、従来法との比較監視を実施するとしている(Friedrichs et al., 2019)。
 正確で手軽く、さらにコスト面にも優れているとされ、現在のライフサイエンス研究において広く浸透しているゲノム編集技術は、今後、急速に農業分野に普及する可能性がある。ゲノム編集技術によってもたらされるリスクのほとんどは、従来の育種技術によってもたらされるリスクよりも小さく、変動範囲内であるとされているが、ゲノム編集技術によって可能になる高度に加速された育種は、より高い生態学的レベルでのモニタリングアプローチによってのみしか対処することができないという新しい課題を示している。さらに、その検出は、事業者や研究者の自主的な行動にゆだねられている。
 科学的に明らかにできない、想定できない未知のリスクにどのように対応していくのか、このような安全性を科学的に評価することができない新規食品をどのように管理をしていくのかという安全上の課題は、ポストノーマルサイエンス(Funtowicz and Ravetz 1993)、リスクガバナンス研究(IRGC 2005)、そして、トランスサイエンス(小林 2007)の分野で古くから議論されている。紙面の関係でここでは少し雑な言い方になるが、一貫して言えることは、より広範な人々、組織、他分野を含む専門家、および、ステークホルダーの適切な関与を促し、ガバナンス(統治)を行っていくことである。どのような新規技術も同じであるが、ゲノム編集食品という最新技術を用いた食品の恩恵を適切に享受するためには、その利益の裏側にあるリスクと上手に付き合わなければならない。食品は貿易産品であり、我が国は残念ながら他国からの輸入品なしには、自国の食品供給量を確保できない状況にある。自然に起こる突然変異との違いが区別できず、届出や表示が義務化できないこの新規食品を、輸入品を含めて如何に安全性を確保していくのかについては、食品安全行政への新しいガバナンスシステムの導入が問われていると考える。Preston and Wickson(2016)が主張しているように、ゲノム編集技術への対応は、実際の新規技術開発の情報提供のあり方を構築することであり、リスクガバナンスの再検討を行う良い機会となる。適用が容易で、安価で、既存遺伝子組み換え技術よりもはるかに高速であるこの技術に対して、事業者や研究者など専門家の倫理と責任、一般市民の参加と関与、そして規制の在り方について、ゲノム編集食品を例に、適切な検出、トレーサビリティ、表示方法を踏まえながら再検討する必要があるのではないかと考える。これまで行われてきたリスク認知研究の成果や、各主体間のリスクコミュニケーションのあり方を如何に既存のリスクアナリシスの枠組みに導入するのかが鍵を握る。

主な引用文献
Agapito-Tenfen et al., (2018) Revisiting Risk Governance of GM Plants: The Need to Consider New and Emerging Gene-Editing Techniques, Front. Plant Sci. 9:1874.
Friedrichs, S. et al. (2019) Meeting report of the OECD Conference on ‘Genome Editing: Applications in Agriculture – Implications for Health, Environment and Regulation. Transgenic Res. 28:419-463.
山口治子(2011)リスクアナリシスで使用される「不確実性」概念の再整理,日本リスク研究学会誌, 21(2) 101 – 113.

タイトルとURLをコピーしました