リスク概念の3つのパラダイムと消費者/専門家のリスク認知バイアス(2024年11月20日)

愛知大学
山口治子

 BSE、築地市場移転における豊洲のベンゼン、そして、ALPS処理水の海洋放水のトリチウム問題など、これまで私たちは様々なリスクコミュニケーションの失敗を経験してきた。失敗の原因の一つに専門家と一般消費者のリスク認知バイアスの存在があげられる。

 2003年食品基本法が制定されて以来、食品安全行政を中心にリスクコミュニケーションが行われてきているが、その効果は認められているものの限定的であり、いまだに専門家と消費者のリスク認知は大きく乖離している(食品安全委員会、2014)。調査結果をみると、一般消費者は病原性微生物、残留農薬、添加物、自然毒に対して不安を抱いているのに対し、食品安全の専門家はタバコ、病原性微生物、偏食過食、アレルギーを懸念している。このような専門家と一般市民のリスク認知バイアスの違いは1989年に発表されたLeeの論文にも明らかである。Lee(1989)によれば専門家のハザードランキングは1位:微生物学的リスク、2位:過剰栄養、3位:汚染物質や自然毒であるのに対し、一般市民は1位:農薬、2位:新規食品化合物、3位:合成添加物とする(Lee, 1989)。先の調査とは調査年次も国も違うが、両者とも消費者は化合物や新しいものに対する懸念が大きいのに対し、専門家は日常の食事や環境自然由来のリスク認知が高い傾向がみられる。では、なぜ消費者と専門家のリスク認知が異なるのか。

 Slovicはリスク概念には技術的パラダイム、心理学的パラダイムそして社会学的パラダイムがあるとする(Slovic, 1986、FAO/WHO, 2006)。安全管理は技術的パラダイムでリスクを悪影響の発生確率とその結果の大きさの積とされるのに対して、一般市民のリスク認知は必ずしもそうではなく心理学的パラダイムで捉えているとしている。心理学的パラダイムは、リスク認知研究成果で示されているとおり、多くの場合「恐ろしさ」と「未知性」の因子で説明ができるというものである(Slovic, 1987)。そして、社会学的パラダイムは、社会的文化的要因による複雑に絡み合うリスクであり、リスク対応が社会的規範や文化的慣習で決定されるものである。Slovic(1986)には、社会的リスクは「組織や社会の存続を維持するために確かなリスクを軽減してしまう」と述べられている。

 例を示しながら説明を加える。食のリスクとは違うが、小杉&土屋は原子力発電における情報提供やコミュニケーションの改善に向けて1999年から10年にわたり原子力発電の一般市民と専門家のリスク認知の違いを調査した(土屋・小杉、2000、小杉・土屋、2011)。結果を図に示す。どちらの年次も一般市民の方が専門家よりリスク認知が高くなっている。原発のような高度な科学技術に関しては一般市民のリスク認知は専門家より大きくなる傾向がある。これは科学的パラダイムに基づく情報源から情報を得る専門家と、マスメディアからの情報を得ることが多い一般市民の違いによるものである。もちろん、マスメディアからの情報は危険をあおる報道が多く心理学的パラダイムでリスクを捉えていると考えられる。さらに、1999年と2009年を比較するとその差が縮まっていることが確認できる。この間、専門家が中心となりリスクコミュニケーションが行われ、大きな事故もなかったために原子力発電が一般市民に安全であると認識された時代である。ただ残念なことに2011年福島第一原子力発電所の事故が起き、その後の調査では、市民の原子力に対する危険性については、2009年危険と答えた人の割合が10%程であったのに対して、2012年では70%に増加し、専門家については20%が40%に増加した(小杉、2013)。この結果は事故前の専門家のリスク認知が過少に評価されていたことを意味する。また、1999年の結果には、電力社員のリスク認知が示されている。電力社員は必ずしも原子力の専門家ではないにもかかわらず、原子力専門家よりもリスク認知が低い。すなわち、原子力発電の安全性を専門家より過大に知覚していることを意味している。このような電力社員がスタッフの一員として、一般市民に原子力発電の安全性についての情報を提供したときどのようなことがおこるのだろうか。土屋&小杉(2000)は電力社員が安全側に過大に評価することについて「自分の働き場所への愛着や組織への一体感から安全と認めてしまう」と述べているが、このようなリスクのとらえ方は心理学的な要素にだけでは説明することができず、社会学的パラダイムの概念が含まれていると考えられる。

 専門家と消費者のリスク認知バイアスを解消するには、科学的知見に基づきリスクコミュニケーションを実施することである。リスクコミュニケーションは、リスクマネジメントとリスクアセスメントが一体となって成功する。食品安全に関するリスクコミュニケーションはどのような場合においても、リスクの評価結果や様々な学問分野による科学的知見を土台にして実施することが重要であると考える。

主な引用文献:Slovic, Paul. (1986)”Informing and educating the public about risk.” Risk analysis 6.4: 403-415. Lee, K. (1989)“Food neophobia: major causes and treatment.” Food Technology: 43: 62-73.

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