
熊本大学 産業ナノマテリアル研究所 准教授
浪平隆男
1.生食文化とアニサキス食中毒
日本では、刺身や寿司に代表される魚介類の生食文化が広く根付いており、その美味しさや鮮度を重視した食文化は世界的にも高く評価されています。一方で、この生食文化と表裏一体の問題として、アニサキスによる食中毒が深刻な社会課題となっています。アニサキスは魚介類に寄生する線虫であり、人が生きたまま摂取すると胃壁や腸壁に刺入し、激しい腹痛を引き起こします。現在、世界におけるアニサキス症患者の90%以上が日本で発生しているとされ、年間約2万人が罹患していると推定されています。このことは、日本における生食文化の安全性確保が極めて重要であることを示しています。
この問題に対する従来の対策としては、冷凍によるアニサキスの殺虫と目視によるアニサキスの除去が主に用いられてきました。冷凍処理は-20℃で24時間以上保持することでアニサキスを死滅させることができ、確実性の高い方法とされています。しかし、魚肉中の水分が凍結・解凍される過程で細胞膜などが損傷を受け、ドリップの発生や食感の劣化といった品質低下が避けられません。また、冷凍処理には長時間の処理および保管が必要であり、エネルギー消費の観点からも負担が大きいという課題があります。一方、目視による除去は、現場で広く実施されているものの、魚肉内部に潜り込んだアニサキスを完全に取り除くことは困難であり、ヒューマンエラーの影響も受けやすく、さらに多大な労力とコストを要します。このように、従来技術では「安全性」と「生食としての品質」の両立が難しく、現場は常にリスクと隣り合わせの状況にあります。
2.パルスパワーによるアニサキス殺虫
この課題に対し、我々はパルスパワー技術を応用した新たなアニサキス殺虫手法を開発しました。パルスパワーとは、電気エネルギーを極めて短時間に集中して放出する技術であり、本研究では1億ワット級の電力を100万分の1秒という短時間で印加することで、生体内部に強い電界を形成します。この瞬間的な電気刺激により、アニサキスの神経系に不可逆的なダメージが与えられ、いわゆる“感電死”状態に至ると考えられています。一方で、魚肉はすでに死後の組織であり、電気刺激に対する感受性が低いため、組織破壊を伴うことなく品質を維持することが可能です。このように、本技術は非加熱かつ短時間で、寄生虫のみを選択的に処理できる点に特徴があります。さらに本技術は、エネルギー効率の観点においても優れています。冷凍処理が長時間の低温維持を必要とするのに対し、パルス処理は極めて短時間の電気印加によって処理が完結するため、消費エネルギーは冷凍処理の約半分に抑えられることが確認されています。このことは、運用コストの低減だけでなく、省エネルギー技術としての社会的価値の高さを示すものです。
3.パルス処理の有効性
本技術の有効性については、複数の実験により実証されています。例えば、アジフィレに人工的にアニサキスを挿入した試料を用いた試験では、合計1,000匹すべてのアニサキスに対して殺虫が確認されました。また、動物モデルを用いた感染試験においても、パルス処理を施したアニサキスは感染能力を失っていることが示されています。さらに、食品としての品質評価においては、食感、味、におい、鮮度、組織構造のいずれについても未処理の刺身と有意差が認められず、品質が維持されていることが確認されました。これらの結果は、本技術が「安全性」と「品質保持」の両立を実現するものであることを示しています。
4.パルス処理の社会的意義
本技術の社会的意義は非常に大きいと考えられます。第一に、アニサキス食中毒のリスクを大幅に低減することで、公衆衛生の向上に寄与します。第二に、水産業、小売業、外食産業において、品質を維持したまま安全性を確保できることから、商品価値の向上と経済的損失の低減が期待されます。第三に、冷凍に依存しない新たな衛生管理手法として、日本独自の生食文化を維持し、将来世代や海外に対してもその価値を継承していくことが可能となります。



