-教 育 講 演 Ⅱ-
「食の信頼を向上させるためのコミュニケーション手法:理論と実践」
中嶋 康博
(東京大学大学院農学生命科学研究科 農業・資源経済学専攻)
はじめに
直接の健康被害はでなかったものの、2007年から2008年にかけて食の信頼を揺るがす事件が立て続けに起こり、それは大きく報道された。これらの事件は、ほとんどのものがJAS法に違反した食品偽装事件である。ただし事故米の事件については、農薬が残留したものやカビ毒の問題のあるような米が不正に食用に販売されていたのであり、非常に危険なものであった。
これだけの偽装事件等が発覚し、事件によっては何度も大きく報道された結果、消費者は食のシステムへの不信感を抱くようになった。農水省が設けた「食品表示110番」への通報は2007年半ばに急増した(図1)。その後の推移から判断すると、この時期に構造的な変化が起こったようなのである。2010年になっても問い合わせ件数は高止まりしており、消費者は不信感を抱いたままかもしれない。
事件・事故を起こした企業が傷つくだけではなく、これによって引き起こされた不信感が消費者の間に広く伝播して、根拠のない疑惑や無用な懸念が本来関係していない他の食品企業に向けられてしまいかねない状況にある。そのような雰囲気が蔓延したならば、食品購買時に消費者が商品やメーカーの選択肢が狭まったり、検討のために余分な時間や手間を掛けなければならなくなったりするかもしれない。またこのような状況に身構える企業は多くなり、その対策のために不必要なコストを掛けなければならなくなる。
フードシステムにおける信頼問題
食事は、毎日数度、そして場合によっては不用意にとる。常に慎重に吟味することなど日常的な食事ではとてもできないであろう。しかしほとんど食品は、見たことも聞いたこともない産地から、多くの人々によって手が加えられリレーされて届いているのである。そのような食品を受け入れて口に運ぶには、そもそも信じていなければ到底できないことである。
現代のフードシステム(農業から食卓までの一連の食品事業者群)にとって信頼は必要条件である。それはまさにルーマン1 により社会的な複雑性の縮減メカニズムとして議論された古典的な「信頼」問題そのものであろう。食の信頼は、食品事業者への人格的信頼を基礎にしていることは間違いない。しかし食品の供給構造がますます複雑化していくならば、フードシステムはシステム信頼を獲得できないかどうかを検討すべきなのかもしれない。もし単なる人格的信頼の集合体としてとどまるならば、システムが拡大していく中で、複雑性の縮減は不完全なままであると予想される。
近年起きている不祥事(事件・事故)によって食の信頼が失われていく過程は、山岸2 の議論を援用すれば、食品事業者の食に関する社会的不確実性(相手の行動によって自分の身が「危険」にさらされてしまう状態)を引き起こす可能性が高くなったと、消費者が考えるようになったということを意味する。もちろん食にゼロリスクはありえないことは皆、分かっているはずである。しかしその許容範囲を超えているから不信を感じるのであって、その内容をさらに分解するならば、「相手の能力に対する期待としての信頼」と「相手の意図に対する期待としての信頼」が失われていったのだと解釈される。
フードシステムが拡大していくにつれて、その「相手」は曖昧になる。食品事業者はそもそも意思の明確な個人ではなく、場合によっては1000名を超える従業員から構成される。そのような場合、社会的手抜きが深刻となるという(吉川3 )。社会的手抜きとは、「集団全体の業績は、そのメンバー全員の個々の業績の総和よりも劣る」状況を指している。そして企業という組織だけでなく、企業の集合体であるフードシステム全体で見たときの社会的手抜きも懸念されるのである。
企業規模が大きくなりフードシステムがナショナルワイドになると、ひとたび不祥事が起きた時、その後のリスクの社会的増幅と呼ばれるような影響が大いに懸念される(吉川)。問題を起こした企業だけでなく、地理的、経済的に関係する者がスティグマ(悪いレッテル)をつけられるような風評被害は数多く観察されている。どれだけ慎重な活動をしてみても、リスク発生の確率はかなりの程度下がるかもしれないがゼロになることはない。自らが原因者とならなくとも、巻き込まれてしまうこともある。リスク発生後の対処で鍵を握るのが、リスク・コミュニケーションのあり方である。
食の信頼の分野において、リスク・コミュニケーションが立ち向かわなければならない近年の大きな課題の一つは、新規食品(食経験のない食品や科学技術で開発された物質を利用した食品など)の安全性を説得していくことである。食品市場が成熟化していく中、新製品開発に成功するかどうかは食品事業者のビジネスを左右する。しかし人々の食に対する意識は保守的であり、その壁を越えることは相当困難である。中谷内4 によれば、このようなリスクを管理する者(機関)は、上記で紹介したような、リスクに対処する能力があるとみなされること(能力認知、先の説明では「相手の能力に対する期待としての信頼」)と真面目に取り組むという動機をもっているとみなされること(動機づけ認知、先の説明では「相手の意図に対する期待としての信頼」)だけでは不十分であるという。それらに加えて、リスクをとらえる視点や問題となる要素のどこを重視するかなど、「リスクを管理する組織との主要な価値が類似していると感じられる」こと(価値類似性認知)がなければ信頼できないのだと言う。これは食品企業にとって「消費者目線」ということになるだろう。このコミュニケーションの姿勢は新規食品だけでなく、あらゆる安全管理内容に及ぶものだと理解される。
フード・コミュニケーション・プロジェクト
個別企業の自主的な取り組みを結集させることによって、消費者の食に対する信頼を向上させる「フード・コミュニケーション・プロジェクト(FCP)」が、農林水産省消費・安全局の事業として2008年度から始まっている。この取り組みは、これまでの規制・指導の行政手法と全く異なっている。すなわち、企業が食品安全管理に対して「真面目」に取り組んでいることを社会的に評価して消費者に伝えていく手段とそのことが経営成果に結びつくようなビジネスモデルの開発をしていくというものである 。2010年11月中旬の時点でFCPには食品に関連する697の企業・団体が参加している。
FCPでは、食の信頼向上のために、すべての食品事業者(製造業者、卸売業者、小売業者)が共通して取り組むべき行動のポイントを「協働の着眼点」としてまとめた。これらの項目は、食品関連の大手企業を中心に約70社の食品事業者の自主的な参加・協力によって作成された5 。「製造」「卸売」「小売」の業種別、「消費者コミュニケーション」「サプライチェーンマネジメント」「衛生管理」の観点別に9つの作業グループが編成されて、合計42回の会議を経て完成した。
それはまず16の大項目が示されて、その下には樹形図のような形で中項目(製造業者49、卸売業者46、小売業者49)→小項目(製造業者121、卸売業者90、小売業者116)の順にポイントが列挙されている。どのような事業者であっても利用できる「共通言語」として組み立てられている。協働の着眼点に沿って事業者は自身の経営を振り返りながら、項目それぞれに合わせた取り組み内容を点検して実行していくようになっている。
協働の着眼点における16の大項目は「ベーシック16」として取りまとめられている(図2)。

食の信頼回復行動の見える化
事業者は、自らの経営を振り返りながら高度化を図り、食の安心の取り組みを「見える化」するための手掛かりとして「協働の着眼点」を利用することができる。その結果、経営面での効果として以下のことが期待されている。
①自社の取組の充実
・従業員の資質向上
・経営方針の精査・質の向上
・工場・店舗の取組の見直し・改善
②取引先との情報収集・発信の効率化
・監査作業の効率化
・バイヤーと食品事業者との情報交換の効率化
・農商工連携の取組を効果的に展開
③第三者視点の活用による企業力強化
・食品事業者の知識・技術の広がり
・食品事業者への融資機会の拡大
・取引先への信頼向上
・ブランド戦略のブラッシュアップ
④消費者コミュニケーションの充実
・食品事業者と消費者間の相互理解の促進
・消費者の食品事業者の取組に対する理解の深化
・食品事業者の取組に関する情報の効率的な集約・発信
これらの効果を現実のものにするためのツール開発も行われている。すなわち、この「協働の着眼点」をベースにした、原料・商品の監査項目の標準化した工場監査シート、新商品をアピールするための展示会・商談会シート、消費者ダイアログシステム(コミュニケーション手法)、企業格付けなどの開発がすでに行われていて、商談会シートは現場で実際に活用されている。
「協働の着眼点」とは、これまで大手企業が消費者や取引先との信頼関係を維持するために構築してきた食品安全対策とコミュニケーション手法に関するノウハウの固まりである。ベーシック16では、例えば緊急事態での対応に3項目も割かれている。これまでの経験を踏まえ、知恵を集めて、項目を厳選した上で周到に組み立てられた。
体系だって理解しているかどうかは別にして、「協働の着眼点」の内容は多くの大手企業にとってすでに承知していることであるが、これを中小の食品企業に開示することで、取引先の安全管理態勢を格段にレベルアップさせることができる。そのことは自身の経営にとってのリスクを低減させることができる。そして食品業界のあらゆる製造業、卸売業者、小売業者それぞれが個別に取り組み、お互いが取引先同士でつながるならば、フードチェーン全体の食の信頼を高めていくことになるのである 。そしてこの仕組みは、これからの農業の6次産業化にとって大いに有効であることは間違いない。
自発的な取り組みの重要性
食品業界において90年代以降進められた規制緩和は、ある面では偽装表示の多発といった負の側面を誘発することになったのではないかと思われる。その結果、食の信頼は大きく傷つけられた。取引相手間で情報は非対称性であるという問題を背景とした、まさに「悪貨が良貨を駆逐」しかねない状況が常に潜んでいることがあらためて明らかになった。安全で良質な食品を得るために、特別の販売先をわざわざ選ばなければならないなど、すでに一部で消費者は余分なコストを支払っている。
偽装に対しては罰則を強化すべきである。また偽装を見破るための検査や監視の強化が必要である。ただし食品マーケットを発展させていこうとするならば、やみくもに企業行動の規制を再強化することは対策として必ずしも望ましくないだろう。違反する事業者を摘発して市場から退場させると同時に、優良な取り組みを行う事業者が適正に評価されてビジネスを発展できる制度を用意することが求められている。それはまさに、より品質の高い製品をJAS規格品として認証して販売を促進させていくという、これまでのJAS制度が歩んできた道の延長線上にある。ただし、このような優良製品の認証ではなく、優良な経営を消費者に認知してもらうための新たな制度とシステムの開発が必要となってきている 。FCPはその試みの一つである。
戦後の食品安全対策は、食品衛生法とJAS法を車の両輪にして進められてきた。これからの食の安全と信頼の回復も、安全管理面での適切な規制と事業者の自発的な創意工夫とのバランスをとりながら進めるべきである。それらの取り組みが、最新の技術の進歩を有効に活用しつつ国際化の進展に調和させながら、豊かな食を築いていくことに期待したい。
1 ニクルス・ルーマン『信頼-社会的な複雑性の縮減メカニズム』(大庭健・正村俊之訳)勁草書房、1990年(原書は1973年)
2 山岸俊男『安心社会から信頼社会へ-日本型システムの行方』中公新書、1999年
3 吉川肇子『リスクとつきあう-危険な時代のコミュニケーション』ゆうひかく選書、2000年
4 中谷内一也『安全。でも、安心できない…-信頼をめぐる心理学』ちくま新書、2008年
5 詳しくは、農林水産省消費・安全局表示・規格課監修『食への信頼はこう創る!-フード・コミュニケーション・プロジェクト-』ぎょうせい、2009年を参照のこと。
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