茨城大学大学院理工学研究科
田内 広
2023年8月末、福島第一原子力発電所からの「ALPS処理水(トリチウム以外の放射性物質を規制レベル以下まで除去した水)」の海洋放出が開始された。2回目の放出が行われた時点で、放出口の近接エリアで10ベクレル/L程度のトリチウム検出が報告されているほかに海洋水のトリチウムレベルに顕著な上昇は認められず、魚介類のトリチウム濃度も検出限界未満となっている。一部の国が日本産魚介類の輸入を規制した一方で、日本国内では福島産の魚介類を避ける動きはなく、むしろ購入して応援する機運が高まっている。しかし、2023年10月の「言論NPO」による世論調査では、日本国民の3分の2が処理水トリチウムの影響に「懸念を持っている」・「判断できない」と回答しており、実際のところトリチウムに関する科学的理解が十分進んだとは言いがたい。ここでは今一度、トリチウムの生体影響について科学的視点からまとめておきたい。
まずは情報源について整理しよう。本稿で扱う科学的な情報とは、客観性が担保された実験や調査による結果が、適正な査読システムを有する学術論文誌に報告され、さらに同分野の専門家による合理性や再現性の検証を経た情報である。トリチウムの生体影響に関する科学的情報は、「原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)」が2016年に報告書としてまとめているので(日本語版が(公財)環境科学技術研究所から公開中)、その報告書の記載情報を中心に主な事実を列挙すると以下のような要点があげられる。
・トリチウムは水素の放射性同位体であり、化学的な性質は水素とほぼ同じである。
・トリチウムは天然にも存在し、主に宇宙から降り注ぐ放射線と大気中の酸素や窒素との反応で生成されている。一方、約12.3年の物理的半減期で減少するため、地球上の存在量(平衡量)はほぼ一定であり、その量はおよそ1.5×1018ベクレルである。
・当然ながら、我々の体内にも主に天然のトリチウムが数十ベクレルほど存在している。
・トリチウムからの放射線は、エネルギーが低いベータ線のみであり、水中で届く距離は細胞1個分にも満たない。したがって生体影響で考えるべきなのは内部被ばくのみである。
・ヒトの体内に取り込まれたトリチウム水は、約95%が水のまま体内を循環して排泄され、およそ10日ごとに半分に減っていく。残りは体内の有機物に取り込まれて有機結合型トリチウム(OBT)となるが、それらも代謝によって排泄され、およそ40日ないし1年程度の半減期で減少する(図1)。生体を構成する化合物である限り、トリチウムが生体内に蓄積するという事実はない。
・トリチウム水の摂取による生体影響度合いは、同じ被ばく線量のX線やガンマ線と比較して同等から2倍程度である。また、マウス実験では、数十万ベクレル/Lを下回ると生体影響が認められなくなる。
・遺伝子DNAの材料となるようなOBTを摂取した場合には、DNAが選択的に被ばくして大きな生体影響が現れることが報告されている。ただし、それは現実的にはあり得ない高濃度に曝露させた実験の結果であり、ごく低濃度であれば生体が持つDNA修復機構によって遺伝子の健全性は保たれる。
・原子力や放射線に関連した業務に従事する人々の疫学調査から、トリチウムの健康影響は他の放射線による被ばく影響と同程度と推定され、トリチウムの生体影響が特別に大きいという事実はない。
大気圏内核実験禁止条約が発効する直前の1960年代初頭には、地球上の平衡量を2桁上回るトリチウム(トリチウム以外の放射性物質も)が放出され、東京に降る雨水中のトリチウム濃度が100ベクレル/Lを上回っていたという測定記録がある(宮本、図2)。水道水も同程度のトリチウム濃度だったはずだが、その頃に子供時代を過ごした世代に健康影響は認められていないし、陸上および海洋の生態系に影響が出たという事実もない。つまり、核保有国によって、私たち自身が「少なくとも100ベクレル/Lレベルのトリチウム水では、ヒトや地球環境に何もおきなかったこと」を証明させられているのである。
今後も処理水の放出は続く。もしかすると排出口付近で10ベクレル/L前後より少し高い数値が報告されることがあるかもしれない。その時に「検出された」ではなく、数値で判断できる社会であってほしい。
放射性物質は少ない方が気分は楽である。しかし、自然界にも放射性物質が存在している以上、科学的情報に基づいて社会的な側面も含めたリスクのバランスを取ることが重要であろう。政界や財界のリーダーはもちろん、一般市民も科学的情報に基づいて理解し客観的に判断する姿勢が求められている。
文献
1)UNSCEAR 2016 Report (和訳版:https://www.ies.or.jp/publicity_j/data/unscear_2016annex_v2.pdf)
2)日本放射線影響学会 編, トリチウムによる健康影響. 2019. https://www.jrrs.org/assets/file/tritium_20191111.pdf
3)宮本霧子, 海生研ニュース 99, 5-8, 2008.